昭和48年08月21日 夜の御理解



 今、末永先生の話を聞かせて貰いよって、本当にあの自分が分かり、自分の信心の状態が、こんな事ではと分かって、それを人の前でお話しが出来る時には、もうあのある意味では、自身がここを立ち上がる事が出来るとか、又はそこからおかげが頂けるものを、何とかこう一生懸命、精進しておる時でなからなければ、中々自分の無様な信心と言った様なものやらは、人の前でお話しが出来ないですね。
 もう本当に、私のつまらない過去をお話をするという時には、その詰らない過去を持っておるけれども、この様におかげを頂いたというものでなからなければ、詰らない過去は話せない様ですね。私は元はこんなだった。けれどもおかげで今日は、この様なおかげを頂いたと。だからもう現在おかげを頂いてないなら言えない。または現在本気で、そこから立ち直ろうとする様な意欲を持っておる時でなからなければ、自分の信心をあぁいう風に言えれる度胸すら出来ません。自分と言うものが見極められる。
 親鸞聖人様じゃないけれども、地獄は一条の住処ぞがしと。もう自分のようなものは、もう、地獄より他に行く所が無いんだと決めておられる。所が地獄を一条の住処と思うておられる自分が、この様におかげを頂いておると言う事はです。ね。地獄よりもましなおかげを頂いておるのですから、やっぱそこに感謝がある。だから誰よりも感謝が深い。そう言う様な面にも、矢張り信心を進めていかなければならんのですけれども。金光様のご信心はどこまでも、やっぱりおかげを頂いていく姿勢と言う事をです。
 本気で見極めようとする。そしてそれに向って今日も精進したと言った様な、こう所謂前向きの信心姿勢というものを取らなければいけない様に思う。自分の信心の不甲斐なさ、そういうものを人の前に吐露される時、それは勇気のいる事ですし、そう言う時には先ずまだ見込みがある時。けれどもそれをひた隠しに隠すと言った様な時には、もう愈々信心が低下しておる時で、言うなら脈がないと言った感じですけれどもね。まぁ末永先生がお話しよりました様な事の中には。御祈念中にでも例えばお詫びをしておってね。
 例えば今日一日のあり方もう本当に、それが例えば朝から晩まで、御神前に座ればもう眠気がつくような自分に、辟易しておるけれどもです。その事の元をどこにあるのかと、今日一日の相すまなかった事を、こう心から詫びておったら、何かしゃんとこうするものを感じたと言うのですから。矢張り信心の過程でそこもまた尊い事だとこう思いますね。その詫びる所の辺りをです、本気でなされなかったら、今日も一日つまらん一日で終わってしまう。相済まん一日で終わってしまう事になりますからね。どうぞ。
 信心のね矢張り、信心の進める手立てと言った様なものがね、あの無いからだと。私は今も丁度御祈念中、福田源三郎という、大変偉い先生の御理解の、天地日月の心になること肝要だと言う事の、あの御理解を説いておられるのを、読ませて頂いたんですけれども。ただ説明であのこの神は、あの昔からある神ぞと、流行もなからなければすたりもないというのが前の方で最後は、天地日月の心になる事肝要と言うのです。
 その先の所の流行りもない、その代わり終わりもないと言う所の説明をずっとしてあるけれども、天地日月の心になる事肝要と言う事だけは、自分には分からないとはっきり言っておられますですね。だからほんなら、この御理解の一番大事な所は、そこなんですよ。神様が流行りもなからなければ、終わりもないと言う所が大事ではなくて、天地日月の心になる事が肝要だと。そこでほんなら、天地日月の心とはと。
 ここではほんなら、まぁ色々な角度から説かれておりますけれども、天の心地の心、日月の心になる事。ほんなら天の心とは、どう言う様な心かというのですから。私共はその信心の焦点がです、ね。天の心と言うのは限りなく、与えて与えてやまない美しい心だというのだから。それ一言だけにでも、ほんなら今日一日取り組んだらいいのですよ。地の心是はもう、受けて受けて受け抜く心だと教えられておるのですから。
 今日はどんな事があっても、いっちょ受けて受けて受け抜くそという精進すればです。そこからねあの信心のいわゆる、一歩前進、二歩前進と言う事になってくるのです。日月の心になる事は、もう、実意丁寧神信心だと頂くのですから、本気で一つ実意を込めて、一日修行させて頂くのです。それをそれに取り組む手立てと言うものをね、私は多くの信者さん方は、御道の信者さん方は知っておられないので、自分の信心が伸びておるも伸びていない事も、いうなら末永先生じゃないけれども。
 本当につまらんと言う様な事すらも、分からんで過ごしておると言った様な信心の方が、多いのじゃないのでしょうか。合楽の場合はそこん所を、今日はここん所に焦点を置こうと。だからそこに焦点を置かにゃ、矢張り駄目です。生きたものは生れてこないです。ね。そういうものを、みやすう教えて頂くのですから。けれどもあのこの御理解を、あの十節をまとめてあるご本ですけれども。
 半ばまで読ませて頂いたけれども、それは金光教的に、まぁけんきょな表現だといや、もうそれまでです。私はこの御理解はよく自分にも分からんけれどもと言うて話しておられます。だから私の場合はそうじゃないです。私はまだ沢山ある深いです。けども私はここまでは、はっきり自信を持って話されると思うて、自分がおかげを受けて来た事を話しておるのですから。
 例えばここの所はこうだとはっきり確信を持って皆さんに聞いて貰ってるですから、それを皆さんが聞いて行じなければ、ほんなら何時まで経っても寝ぼけた様な信心しかないと言う事になる訳ですよね。そうですね。その行じると言う事を、ほんなら例えばだから本気で今日はいったら、私はっちょ天の心で行こうぞと。今日は地の心で行こうぞと言う様にですよ。それを行じなか何時まで経っても、寝ぼけ信心から脱却する事は出来ないと思うですね。
   どうぞ。